マダガスカルの貧困撲滅を支援する会

私たちにできること②:情けは人の為ならず


前ページでは、格差を生んできた仕組みと歴史を振り返り、貧困や格差の問題というのは先進国社会の問題である、という話をしました。

前ページの冒頭で申し上げたとおり、まずはこの仕組みと歴史を我々が理解することが大事だと思います。

理解したあと、「ではどうしたらいいのだろう?」という難問に対しては、明快な答えはなく、私も悩みながらこのページをとりあえず作っている所ですが、現時点で私が考えていることは次ページ③でご紹介しています。

その前に、このページでは、その背景として更に我々の歴史を振り返りたいと思います。が、資本論だとか進化論だとか、利己心とか利他心とか、少しマニアックな話になりますので、ご興味のある方以外は飛ばして次ページに行って頂ければと思います。

善意や倫理観では世界は変えられない?


さて、また身も蓋もない話になりますが、そもそも、前ページで見たように、格差が広がるのは当たり前とも言えます。

我々は、もしくは自然界は、自分の利益を最大化する利己心で動いており、世界は弱肉強食だからです。

利己心を追求し生産性を上げてきた歴史の帰結として我々は資本主義に至っており、「金持ちほど勝つ」という弱肉強食の法則をついには世界規模で動かすシステムを作ってきたのです。

では、この格差を縮めていくには、我々は、その内なる善意や倫理観に頼るしかないのでしょうか?

人間、もしくは生物の本質的な利己心や弱肉強食という自然法則を前に、我々は果たして善意や倫理観といった「人工物」で立ち向かえるのでしょうか?

歴史を見てみると、実は利己心や弱肉強食という法則がそんな単純なものではなく、格差との戦いや利他心というのもまた、その法則を構成する一部であり、我々がその戦いに挑むのは今回が初めてではないということが見えてきます。

このページではその点を考察したいと思いますが、その前にまずは、現代の我々が陥りやすい「資本主義が悪い」という近視眼的な視点を少し解きほぐして、建設的な議論の土台を提案したいと思います。

「資本」の本質


「資本主義で広がる格差」の問題は、150年前にカール・マルクスが指摘した「資本」の大きな本質のひとつとも言えます。

マルクスが説明する「資本」について、私はそれを、坂を転がりながら膨らみ続ける雪だるまのようにイメージしています。

この雪だるまは、その強烈な引力で周りから搾取し、周りを疲弊させながら独りでに肥大化を続ける性質を、まさに万有引力のような物理法則の如く、本質的に備えています。

マルクスによると、資本は、あらゆるものを商品に変える力を持っており、それまでは公共物として共有されてきたものを人々から奪い、労働者を非人間的なほど働かせるのはもちろん、以前はやりがいのあった「仕事」というものを分業化・機械化し労働者から能力さえも奪い、自然環境も搾取して、自己増殖を続けていきます。

ちなみに、万有引力の法則にしても、その法則が正しいことは疑いようのない事実として広く理解されていますが、「なぜそうなるのか」の原理については解明されていないというのはご存知でしょうか。

確かに万物は引き合っているようですが、でも「なぜ万物は引き合うのか?どんな原理で、何を動力とした力なのか?」と思ったことはありませんでしょうか?

同様に、資本が持つ上記の性質も、原理が解明された訳ではないけれども、起きていることを観察しているとそういった法則が存在していることは否定しようがない、と認識されているかと思います。

2014年ごろに一世を風靡した「21世紀の資本論」でフランスの経済学者トマ・ピケティは、数百年前からのデータを集めてそのひとつの実証を試みたと言えるでしょう。
(なお、本書によると皮肉なことに、20世紀に資本の偏在を破壊し、格差を大胆に是正することに成功した要因というのは、2度の大きな戦争とのことです。)

悪いのは「資本」?


このように、マルクスは「資本」を主体として捉え、資本家たちですらその資本に振り回されるようになる、と資本を擬人化したように説明しています。

確かに、マルクスの生きた19世紀は、産業革命が西ヨーロッパに広がり、社会が急速に変わり様々な問題も引き起こした時代でしたので、何かが世の中で突如猛威をふるい出しているという感覚があり、それが何かと観察したところ、「資本だ」と結論づけたのでしょう。

これは当時の「分かりやすい説明」としては的を得ていたのだと思いますし、現代でも未だにいろんな企業が自社の利益のためにあらゆる手段を尽くすところを見ると、今でも色褪せない説明です。これを初めに深い洞察で明らかにしたマルクスの議論は今もなお広く支持されています。

むしろ2000年代以降はアメリカの若者などを中心に再び支持を得るようになっていますし、日本でも最近、斉藤幸平氏の「人新世の資本論」が話題となりました。

一方で、もっと素直にフラットに、マルクスが指摘した上記のような社会問題の話を聞くと、私は「人間の欲は限度を知らないなぁ」とか、「やはりここでも弱肉強食の法則は健在だ」という印象を持ちます。

つまり、資本主義の台頭により顕在化したこれらの事象は、ただの生命の本能の表れと弱肉強食の法則という、古くから自然界にある原理の延長・拡大に過ぎないようにも見えます。

生産様式と階層社会の歴史


前ページで紹介した「銃・病原菌・鉄」のジャレド・ダイヤモンドが用いていることで広く知られるようになった、人類学者エルマン・サービスによる「社会の4分類」というのがあります。

それは、数十人規模の「小規模血縁集団」、数百人の「部族社会」、数千人の「首長制社会」、そして数万人以上の「国家社会」という分類です。

猿と分化してからの数百万年の間、人類の生産様式はずっと狩猟採集でした。その生産様式では、よほど豊かな自然環境でない限り、大きな人口は抱えられず、数十人の小規模血縁集団か、せいぜい数百人の部族社会でした。その程度の人口では首長制とする必要性も生じす、またそれを賄うほどの余剰生産物もありませんでした。

小規模血縁集団や部族社会では、彼らは比較的民主的で平等な社会を築いていたと考えられています。

この生産・社会様式を数百万年続けた後、人類がようやく農耕や牧畜という生産様式を試みだしたのは、前ページでも触れたとおり、ほんの1万年ほど前の話です。

ナイル川氾濫原や肥沃な三角地帯など、環境に恵まれていた地域では農耕牧畜の生産性が高く、徐々に大きな人口を抱えるようになり、7千年ほど前には数千人規模の首長制社会が見られるようになります。

このときに初めて、資本が「余剰生産物」という具体的な形を持って現れ、貯められるようになったと言えるかもしれません。そして同時に、首長やその一族と平民という階級も生まれてくることになります。

その後、更に成長を続けられた首長制社会は次第に近隣の別の社会と接触せざるを得ず、合併や征服などを通じ数万人以上の規模となり、最初の国家社会が誕生したのが、約5400年ほど前だそうです。

このように、農耕牧畜を始めたことにより、「保存できる余剰生産物」という形で資本が物質化し、私有できるようになりました。

この余剰により、人口(密度)が増え、統治機構が必要となり、支配するものとされるものが生まれ、階層社会が始まりました。

古代ギリシアやローマなど、民主制を一部とっていた古代国家でも、少数ながら奴隷たちがいて、市民という支配層と奴隷という非支配層の構造がありましたし、その後世界では広義での君主制が一般的になっていき、そこには国家支配の階級構造が当然ありました。

中世ヨーロッパや日本でも見られた封建制も、領主と農民という支配・非支配の社会経済構造を指した言葉であり、それがその後、徐々に商業が発達し、「生産」という行為が土地だけの話ではなくなるにつれ、領主による封建制だけでは成り立たなくなり、都市行政も含めた絶対王政や社団国家、そして近代国家へと支配構造が移行していったのです。

ちなみに資本主義(Capitalism)という言葉の起源は、中世から近世に変わっていく中で、徐々に商業が発達し、領主や国王とは違う形で余剰を高度に蓄積した者を「資本家」と呼んだ所に始まり、この資本家らが19世紀に行った工場での生産方式などを「資本家的な生産方式(capitalist mode of the production)」などとマルクスらが表現する中で、次第に「資本家的なやり方」という意味でcapitalismという言葉が使われるようになったそうです。

領主が支配した封建制を英語でFeudalism、王などが支配した君主制をMonarchismと言い、支配層の名前から、その時代の社会経済構造が表現されます。よって資本主義(Capitalism)の時代と言われている現代は、資本家が支配している社会と言えるのかもしれません。

このように、歴史を振り返ると、階級による支配関係という弱肉強食の法則は今に始まった話ではありません。
そして、支配階級は必ずしも、常にやりたい放題の横暴を働いてきた訳でもありません。非支配階級がそれを許してこなかったからでしょう。

では、狩猟採集社会の時代には、階級による支配関係はまだ存在してなかったのでしょうか?

農耕牧畜社会に移行して「私有できる余剰」というものが生まれて、そこで初めて我々人類は私欲を持つようになったのでしょうか?

狩猟採集などの伝統社会では、我々は平等主義で、他人を思いやる心を持っていたのでしょうか?

この問いの答えは、結果としてYesですが、その結果に至った理由はそんな牧歌的もしくは理想主義的な話ではないようです。

利他的行動が生存確率を上げる


イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスが40年以上前に書いた「利己的な遺伝子」というベストセラーがあります。
生物に見られる「利他行動」(自分以外の個体を利する行動)を進化論でどう説明するかという、進化生物学における大きなテーマのひとつについて書かれた本です。

このテーマのうち、互恵的利他主義の例として出されるチスイコウモリ(吸血コウモリ、Vampirebat)の例が一つの示唆を与えてくれます。

このコウモリは、文字通り他の動物(哺乳類)の血を食糧として生きていますが、しばらく血にありつけていない仲間に血を分け与えるという利他的な行動をとることで知られています。

このような行動は、血を与える方からすると、自分の生存確率を下げることになるので、自然に考えるとそのような「お人好し」はすぐ進化の過程で自然淘汰されるように思われます。

しかし、最初は突然変異から出てきた変わり者であるそのような「お人好し」の遺伝子を持った個体たちは、お互いに助け合うことで、分け合わない個体よりも生存確率が上がり、次第にお人好しの遺伝子が主流になっていったのです。まさに、「情けは人の為ならず」です。

次に、周りがみんなお人好しなら、その中で、周りのおこぼれに預かりながら自分は分け与えないという「裏切り者」が最も生存確率が高い遺伝子になります。

しかし今度は、この裏切り者ばっかりになっては当然また元に戻るだけで生存確率が下がるので、完全にお人好しを置き換えていくことはありません。

すると今度は、「裏切られたら、その個体を覚えて次回以降はその個体には分け与えない」という、しっぺ返しをする遺伝子を持った特異な個体が出てきます。

この遺伝子は、無駄に与えることが減る分、当然ただの「お人好し」の個体よりも生存確率が高くなり、かつ裏切り者の生存確率を下げるため、結果としてこの遺伝子を受け継いだ個体が集団の中で主流になっていきます。

このように、生命は必ずしも全てが利己的という訳ではなく、協力した方が生存確率を上げられる場合、利他的な行動をとる遺伝子の方が生き残っていくことがあります。

進化心理学などでは、人類の数百万年間の狩猟採集社会の進化の過程でも、これと似たようなことが起きてきたと考えられています。

現に、私たちの心の中に、相手を思いやったり、自分を犠牲にしてでも子を守る親など、利他心が多かれ少なかれ存在しているのが何よりの証拠でしょう。

「だから我々はお互いを助け合うようにできているのだ」という事も言えるのかもしれませんが、それほど単純でもないのでしょう。

上記で見てきたように、我々は1万年ほど前に農耕牧畜を始めて、余剰ができ人口が増え社会形態が変わると、比較的平等な社会から、支配する側とされる側に分かれる社会を作るようになりました。
そしてそれが産業革命を経て経済が発達すると更に拍車が掛かっています。

「数百万年間の狩猟採集社会に比べると、1万年は短く、我々にはまだ1万年前までに築いてきた特性が色濃く残っている」とも言えるのでしょうが、環境の大きな変化というのは意外に短期間で生物の自然選択に影響を与えることもあるので、ゲームのルールが変わったと言える今、これからも人類がお互いに助け合う性質を残していけるのかは、なんとも言えません。

未来は変えられる


ただ、これは進化生物学でも、ドーキンスの「利己的な遺伝子」でも述べられている事ですが、社会や文化を持つようになった人間の場合は、遺伝子が全てではありません。これから私たち自身がどのような社会を築いていくかにかかっています。

前ページでも触れた「ホモ・デウス」では、今後データ社会がさらに進み、それを牛耳る少数の超特権階級によって殆どの人類が家畜化される、という不吉な未来が予想されていますが、ここまでラディカルな予想を理路整然と行なった著者ですら、私たちの未来は変えられるし、変えなければならないと自ら言っています。

また現代では、資本主義で膨張した我々の「利己心」が暴走していますが、実はこれまでにも似たような事態は歴史上ありました。

たとえばフランス革命当時、貴族などの特権階級は、既に金持ちで地代収入もあるにも関わらず、免税特権まで持っていました。特権階級による支配が暴走した結果のひとつで、減税の続く現代の企業を思わせます。

結果、フランス革命によってこの暴走にNoを突きつける訳ですが、その土壌を作ったのが、啓蒙思想でした。
(もちろん、商業の発達によりブルジョワジーという新たな層が力を付けていたという社会経済的変化も前提としてあります。)

現代の我々も同様に、前ページで申し上げた通り、まず理解するということが非常に大事だと思います。

当然ですが(社会)科学は日々進歩しており、大人になった我々が昔学校で習ったことは、その後も新たな発見や、より正確な理解に至っていたりしますので、(習ったけど忘れてしまった事も含めて、)学び直しが必要です。

かと言って、なにも市民を啓蒙して革命を起こそうなどと言っている訳ではありません。

むしろ、「資本主義が悪い」とか、「階級闘争だ」という話を持ち出すと、一般の人にはどこかで違和感を持たれてしまいます。

その違和感はソ連などの共産主義の失敗からきている訳ではなく、やはりその理論や論調自体に、一般の方々には腹落ちしにくい違和感が内在しているのではないかと私は思います。

2019年にノーベル経済学賞を受賞したアジビット・バナジーとエスター・ドュフロが書いた「貧乏人の経済学」という本では、貧困問題にしても、しばしば経済学の大御所たちがやりがちな、問題を大きく俯瞰して「ドラマチック」な捉え方をしてそれらしく唱えるという見方ではなく、ちゃんと近くで見てみたら、ごく個別具体的な問題の集まりなだけであって、ひとつひとつ紐を解いていく具体的な方法を考えるべきだ、という考え方からスタートしています。
(AmazonのKindle版のサンプルで序章が丸々立ち読みできるので、ぜひご覧ください。Kindle専用タブレットがなくとも、スマホで読めます。)

資本主義や格差問題との向き合い方も同じで、一人一人がその仕組みや歴史を理解し解決に向けた決意を社会全体で共有した後は、あまり事態を大袈裟に捉え過ぎず、その問題をひとつひとつ解決していく工夫を考えていくしかないのではないかと思います。

未来を変える「工夫」


工夫といえば例えば、ミクロ経済学などで取り上げられるゲーム理論(一定の条件下での人間の意思決定をモデル化する学問分野)で、公共財ゲームというのがあります。

これは上記のチスイコウモリの例と似ており、ゲームの参加者同士で協力しあった方が全員の利益が上がるにも関わらず、裏切り者が出てくると、人は次第に協力することをやめてしまいます。
(より正確には、実際に裏切り者が出てこなくても、人間はその裏切られるリスクを勘案し、全面協力するのではなく、部分的な協力に留める傾向があることが確認されています。)

しかしここに、「裏切った者に対し処罰を加えることができる」というルールを足すだけで、裏切り者が減るばかりか、全員の協力度合いが大きく高まったそうです。

もちろん、現実世界ではこのように単純にはいかないのでしょうが、「工夫」の意味がイメージ頂けたのではないかと思います。

他にも、権力や利己心の暴走を制御するために私たちが既にしている工夫で言うと、三権分立や、独占禁止法などがあります。

今となっては当たり前ですが、最初からあった訳ではなく、これらも失敗を通じて私たちが編み出してきた工夫のひとつです。

グレタ・トゥーンベリさんの気候変動への対応を訴えた活動が世界中で共感を得て大きな運動になっていることが示す通り、21世紀に入ってからは特に、現在の社会経済システムに対し大きな不満や閉塞感がいよいよ蓄積してきているのではないかと思います。

そろそろ、真剣に知恵を出し合って、次の時代を作る「工夫」を考える必要があるのではないでしょうか。


と、雲を掴むような話はこれくらいにしまして、次ページではもう少し具体的な話をしたいと思います。

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