マダガスカルの貧困撲滅を支援する会

私たちにできること①:知る


「貧困があることはもちろん前から知ってはいたし、このホームページでペドロ神父のメッセージを読んで、貧困に陥った人々を真に立ち直らせるのがどれほど大変で根気のいることなのかは分かった。でも、じゃあ私に何ができるの?」

やはり、これは簡単な問いではありません。

①知る・理解を深める

私(このページの管理人)としては、やはりまずは、なぜ貧困があり、なぜ格差があり、なぜそれが解消されないのか、という世の中の「仕組みと歴史」について、ひとりひとりが理解を深めることがスタート地点ではないかと思います。

追々、ブログでひとつずつ詳しく書いていきたいと思っていますが(そして大学のゼミのように、似た関心を共有する人たちと理解を深めていきたいというのが私の大きな願いなのですが)、
まずは一旦ダイジェスト版として、上記の問いに対する私の現時点の理解をここに書きたいと思います。

貧困は当たり前の現象


いきなり身も蓋もない話になりますが、貧困が存在すること自体は、基本的には当たり前の事象と言えるでしょう。

近年話題になった本を引き合いに出す間でもないものの、例えば「サピエンス全史」で世界的に大ヒットしたユヴァル・ノア・ハラリの続編「ホモ・デウス」によると、人類の歴史は飢饉(と疫病と戦争)と共にありました。

18世紀末のヨーロッパでも、日本でも江戸時代に、大きな飢饉が何度もあったそうです。

もっと言えば、猿から分化した人類の数百万年の歴史の中で、我々は何とか食いつなぎながら子孫を残してきたのでしょう。

先人の築いた資産のおかげ


そういった歴史を経てようやく、現代を生きる我々の多くは、先人の築いてきた多くの資産(もしくは遺産)の上に、豊かに生きることができています。

例えば日本では、万人が質の高い教育を受けられる仕組みを明治維新を機に築いてきましたし、その仕組みを考え実行に移せる行政組織がそれなりに機能したのは、江戸時代末期までに寺子屋などが都市部を中心に普及し、比較的高い識字率を始め、十分な質のある人的資本が蓄積されてきていたからでしょう。

そして子どもたちを寺子屋に行かせる程度の経済的余裕があったのは、古代・中世・近世を通じて、生産性を上げてきたからでもあるでしょう。

もっと単純に言えば、今の日本の子どもたちの多くには住む家があり、その日食べるために路上で物乞いをする必要もなく(※)、汚い飲み水しかなくて慢性的な下痢に苦しみ栄養状態が悪く体も脳も十分に発達できない、という訳でもなく、根こそぎ持って行くような強盗団に襲われる心配も少なく、戦争に連れていかれる訳でもなく、自由な発言や政治活動を制限される訳でもありません。
(※ 最近では日本でも、子どもの7人に1人が貧困状態にあるという衝撃的な話もありますが…)

実力も運のうち


そのような、いま我々が当たり前と思いがちな恵まれた環境は、数百万年の人類の歴史の中で、無数の先人たちの努力と試行錯誤の末に、ようやくほんの半世紀ほど前に辿り着いたものであり、それも先進諸国だけで実現できているものです。

そのような恵まれた社会に生まれ、例えば勉強を頑張って良い大学に行き、良い企業に入ったり士業についたりして年収1千万円を超えたとか、もしくは一念発起して起業して、苦労の末に成功を収めて億を越すような資産を若いうちに築いたとか、もしくはそこまで恵まれずとも、大きな不自由はなく人並みの生活はできている、という人たちにしても、それは「自分が頑張ったから」「自分にはその能力があったから」なのでしょうか?

その人がマダガスカルの貧しい家庭に生まれていても、大人になれば今と同じような生活をするところまで行けたでしょうか?

私たちの多くは、「今の自分があるのは、自分にその能力があり、その努力をしたから」と思いがちですが、そもそも個人の能力が素直に発揮できるような環境にいること自体が、歴史的に振り返っても、もしくは今の時代で横で比べて見ても、とんでもない幸運なのです。

つまり、「実力も運のうち」なのです。
(「運も実力のうち」ではなく、その逆です。なお、これは「ハーバード白熱教室」の正義に関する授業で有名なマイケル・サンデル教授の近著の邦題です。)

勝因は「変換装置」


言い換えると、あなたの才能や努力は、これまでの人類の中であなただけが獲得した才能で、あなただけが成し得た努力でしょうか?

そうではなく、我々の長い歴史の中で、同じような才能を持ち、同程度の努力をした人はいくらでもいたはずです。

しかし、その先人たちが、今のあなたと同じような成果や豊かな生活を手に入れることができたでしょうか?

多くの先人たちは、そうはいかなかったはずです。なぜでしょうか?

それは、あなたが今いる社会が、あなたの才能や努力を、そのような成果や生活に「変換」してくれたから、とも言えるでしょう。

つまりあなたの勝因は、その才能や努力というよりは、これまでになくスムーズに働く「変換装置」が備わった社会に生まれたこと、と言えるかもしれません。

加速化する資本の原理


そして、情報や物流が極めてスムーズに流れるようになった21世紀では、資本主義の弱肉強食の原理、「勝つものはもっと勝ち、負けるものはもっと負ける」という自然の摂理が、より剥き出しに、そしてスピーディに働くようになった結果、その中で成功した人や会社には、富が極端に集中しやすい仕組みになっています。

上述したように、そこで成功した人が10億や100億稼げたのは、(その人の取った行動の結果として勝負に勝ち残れたのは事実だとしても、)それが必ずしもその人に10億や100億という金額に見合う価値や実力があったという訳ではなく、「現代では、勝った者に対して経済の仕組みがそのように働いた」という結果に過ぎないと言えるでしょう。

例えば、もし同じ人が江戸時代に生まれていたら、同じ能力を持ち同じだけの努力をしたとしても、同程度の富を集めるのは無理だったでしょう。

その前に、前述の通り、その時代の仕組みの中では同じ能力を同じ水準まで育てること自体がまず難しいでしょう。

生まれながらに持つ「資産」


このように、私たちの多くが豊かな生活を送り、自分の能力や努力が報われるのは、先人たちが社会の中に有形無形のいろんな「資産」を築いて残してきてくれたおかげです。

こういった広い意味での「社会が持つ資産」は、当然我々の「個人としての資産」にもなっています。

例えば、いま先進諸国に住む我々の多くは、十分な食べ物を与えられて育ち、ただ空腹を満たすだけでなく、栄養バランスという視点も持った保護者に育てられています(栄養バランスの視点なんて常識でしょ?と思うかもしれませんが、貧困国では当たり前ではありません)。

また、我々の多くは「不衛生な飲み水で下痢を繰り返し、せっかく摂った栄養を無駄にしてしまう」ということもなく、その結果、体も脳も十分に発達させることができています。

このような、才能を発揮するための「前提条件」のレベルから、我々がいかに恵まれているかがお分かりになるでしょう。

(余談ですが、日本人の平均身長は、この100年間で15cmも伸びたと言われています。これは遺伝子レベルの変化ではなく、遺伝子レベルでは元々備わっていたポテンシャルが、食生活の変化で発揮されるようになったと考えられています。)

そして更に、その健全な体と脳という「立派な箱」の中に、先人たちが蓄積してきた知恵や知識や科学を、先人たちが試行錯誤の末辿り着いた「効率的な教え方」でたくさん分け与えてもらうことで、我々は高い知的水準に至ることができています。

これらはほんの一例ですが、我々はこのようにして、「社会が持つ資産」を、自らの「個人としての資産」としても享受しています(このような仕組み自体もまた、社会の持つ資産です)。

そもそもの「元手」が違う


こういった「資産」は、言い換えれば「元手」のようなものです。

ビジネスや株式投資というのは、究極的には、「元手を使って、それをどれくらい増やせるのか?」という世界です。

資本金(元手)を元に、銀行などから借金もしつつ、全体の資産を回して(=使って)事業をした結果、元手を何パーセント増やせましたか?というのが、ビジネスや株式投資で最も重要な指標のひとつであるROE(Return on Equity、自己資本利益率)です。

私たちの豊かさについても基本的には同じで、前述のとおり私たちは広い意味でのいろんな「資産」を社会としても個人としても持っているから、それを元手に、それが土台としてあるからこそ、豊かな生活を送れています。

これがもし、自分のいる社会にも、自分個人としても、広い意味での資産が十分になければ、こうは行きません。

そもそも元手が少ないのですから、いくらそれを増やす努力をしても、元手が遥かに多い人たちと比べると、たかがしれているのです。

このように、かたや、先人たちの蓄積のおかげで、ほぼ生まれながらに様々な資産に恵まれ、その大きな元手を回していくことで比較的豊かに生きていくことのできる私たちがいる一方で、かたや、まだ十分に蓄積されていない、限られた資産を元手に必死に生きている人たちがいるのです。

差を生んだのは環境


ちなみに、大陸や社会によって先人たちの蓄積量に差があるのは、決して人種ごとの遺伝子に優劣があるからなどではありません。

ジャレド・ダイヤモンドによる20年以上前の世界的ベストセラー「銃・病原菌・鉄」によると、ユーラシア大陸においては、家畜化に向いている性質を持った動物がいて、同様に、農耕に向いた植物を発見することができ、家畜を使うことにより農業の生産性も上がり、かつ東西に長いユーラシア大陸では比較的自然条件に大きな差がなく、これらの発見を似た環境で享受できる土地が広かったために人口の増加余地も大きく、そして大陸全体の大きな人口を背景として各社会で起きた様々な技術革新(例えば車輪の発明など)が相互に共有されていくことで発展がさらに加速していったのです。

猿から分化した人類が数百万年かけて進化してきた中で、現生人類が出てきたのはほんの数十万年前で、彼らがアフリカを出て他の大陸に移動し始めたのはほんの5〜10万年前です。

そしてユーラシア大陸で農耕牧畜が発展し出したのは、ほんの1万3千年前です。

もちろん、この1万年ほどの変化は劇的なものであり、その生産様式と社会の劇的な変化が、1万年とはいえ我々に与えてきた影響も多かれ少なかれあるのでしょうが、いずれにしても我々は数百万年かけて猿から進化した「同じ種」であり、つい最近世界中に広がり、その移住先での自然環境が違ったがために築いた資産に差が出ただけです。

ただ「蓄積してきた資産に差がある」だけではない


さらには、本当のことを言うと、我々はただ「蓄積してきた資産に差がある」だけではありません。

先進諸国は大航海時代以降(もしくはもっと前から)、植民地を広げて先住民の殆どを滅ぼしたり、奴隷として大量に連れ去ることで、「人的資本」という現地社会の基礎的な資本を破壊してきました。

現在、アジアやアフリカの多くはかろうじて先住民中心の国家を持てていますが、南北アメリカ・オーストラリア・ニュージーランドなどは、自分たちの国を持つにはあまりに仲間が(感染症の持ち込みも含めて)殺されてしまい、植民地のまま既成事実化してしまったのが今の世界です。

そして先進国社会は、生き残った先住民も奴隷にし安価な労働力としてプランテーション(大規模農園)などで働かせることで莫大な富を築いたり、商品を安く買えたり、日々の生活においても生産性を上げる(言い換えれば「余裕を持つ」)ことができ、自らの発展を加速させてきました。

このように、ほんの1万年ほど前からつき始めた資産の差が、それも大航海時代当時の段階では今ほどの差ではなかったであろうに、富める社会が貧しい社会を破壊もしくは搾取することで、少なかった「元手」をさらに奪い、さらには自分たちのものとして付け替えることで、自分たちの資産増加を更に加速させてきました。

その結果として、今の差が存在しているのです。

これは決して感情的な話でもイデオロギー(考え方の違い)の話でもなく、実際に起きてきた「資産の移動(搾取)」であり、単純な足し算・引き算の話です。

そして先ほどの「元手を何%増やせるか」という話のとおり、その差はその後、アインシュタインが「人類最大の発明」と呼んだ「複利計算」という掛け算の繰り返しにより、膨大な差となりました。

それを考えると、元々の自然環境によって生まれた差に加えて、五百年前に我々が徹底的に奪ったことがどれ程のインパクトのある話かが想像つくでしょう。

終わらない「強者の支配」


そしてこの構造は、21世紀になった今も無くなった訳ではありません。

戦争や略奪がなくても、強い立場にいる者というのはどうしても、その優位な立場を利用して、弱い立場にいる者を有利な形で使おうとする力があらゆる場面で自然に働いてしまいます。

身近な例で言えば、セクハラやパワハラなどがそうです。

現代の経済でいうと典型的な例としては、市場価格を知らないことをいいことに農家から買い叩いたり、縫製工場などで劣悪な環境や不当な賃金で働かされている、というのがよく挙げられると思います。

マダガスカルでも、雲母という鉱石の採石場で、現地の元締めたちが、他に生きていく術を知らない脆弱な貧しい親たちの足元を見て、その子どもたち共々、採石場で働かせるという児童労働の問題が近年明らかになっています。

日本や先進諸国の内部でも、最も弱い立場にいる人たちの層(女性のパートタイマーなど)は賃金が上がりにくい構造があり、最近ではこれを、デービット・アトキンソン氏(元ゴールドマン・サックスのアナリストで現在は小西美術工藝社の社長)が「モノプソニー」という用語を使って説明を試みています。

これらの問題は、ようやくその実態が少しずつ認知されるようになり是正する動きが出てきていますが、要は搾取の構造はなにも植民地や奴隷制度だけの話ではなく、実は今でも見えにくい形で、いろんな場面で存在しているのです。

格差が開いて当たり前


このような状況ですから、貧しい者が、なけなしの元手、元から少なかったのにさらに奪われてきた歴史を持つその元手でいくら頑張ろうが、追いつける訳がなく、さらには、いまだに明に暗に搾取が続いています。

このようにして、貧しい者はいつまでも貧しいまま、固定化されます。

これを、帝国主義の次の段階にある、経済を通した世界的な搾取構造という意味で「近代世界システム」と名付けウォーラーステインが指摘し始めたのはもう1970年代のことです。

いろんな学説や、「搾取」という穏やかではない言いぶりに感情やイデオロギー的な異論反論はあるのでそこは置いておいたとしても、とにかく、このままでは格差がさらに開いていってしまうという認識は、日本でも最近では共通理解になりつつあるのではないでしょうか。

「仕組み」に起因する当然の帰結


そして、繰り返し強調しますが、格差が開くのは、貧しい人々の能力が劣っている訳でもなく、怠けている訳でもなく、世の中の仕組みとして最初から「無理ゲー」(勝ちようのないゲーム)を強いられているからです。

そして、その仕組みを矯正できる力があるはずの強い立場側の人間が、真剣にそれを矯正しようとしていないからです。

よって、実力の差だとか自業自得という話ではなく、我々先進諸国がそのような状況に陥れたのであり、そのような世の中の「仕組み」に起因する当然の帰結として起きていることなのです。

ちなみにこれは、日本国内でも同じです。

一例として最近の本では、松岡竜二氏の「教育格差ー階層・地域・学歴」(2019)が、日本でも親の社会経済状況や「生まれ」といった要素が子の人生に大きな影響を及ぼすという状況が古くから存在し、再生産され続けているという事実を、豊富なデータを基に明らかにしています。

なお、現代のこの「自業自得だ」とか「能力がないから仕方がない」といった「能力主義」の考え方の危険性については、前出のマイケル・サンデル教授の「実力も運のうち」で詳しく指摘されています。

貧困や格差とは、誰の問題か?


ここまででは一旦、なぜ貧困や格差があり、なぜ解消されないのか、その状況を生み出している世界の仕組みや歴史について簡単に振り返りました。

こういった仕組みと歴史を経て我々は今の恵まれた生活を享受していることを、当人である先進諸国の我々がしっかり理解しなくてどうするのでしょうか?

この状況を是正する力を持っているのは、持てる者と持たざる者のどちらでしょうか?

この歴史と仕組みを鑑みると、それを是正する「力」だけでなく、「道義的責任」も負っているのは誰でしょうか?

つまり、貧困や格差の問題というのは、「誰の問題」なのでしょうか?


私は、私たち先進諸国社会こそが、変わらなければならないのだと思います。

そもそも、このような理解を深める教育が先進諸国において十分でないことからして、大きな問題なのです。

ほんの100年前まで、人権という概念はまだ十分に世界の人々に共有されていませんでしたが、現代の我々の常識から見ると、そんな時代が信じられないように思えます。

同様に、遅くとも100年後までには、今の時代の我々の感覚 ーこのような世界の仕組みや歴史に対する理解に乏しく、持てる者が十分なアクションを起こさず、見て見ぬふりをしていても疑問に思わない我々の時代の感覚ー が信じられないような社会になっていることを私は切に願いますし、願うだけでなく、それを実現するために、非力なイチ一般人ではありますが、私も貢献していく必要があると思っています。



しかし、これでもまだ、「なぜ格差を是正しなければならないのか?申し訳ないが、正直そんな遠い国の人たちの事は自分の生活には全く関係ないし、そこまで構っている余裕はない」と思う方も多いでしょう。

実際、私たち日本人は、GDP、つまり私たちの収入の0.3%ほどしかODA(政府による開発援助)に使うことを政府に許していません。
(国際社会の約束では、0.7%が求められています。今はそれの半分以下です。0.7%でも低いと思いますが…。ちなみに、軍事費は主要各国2〜4%も使っています。日本でも1%です。)

こんな社会をこのまま放っておいて良いのでしょうか?放っておいても、我々には利こそあれど害はないのでしょうか?

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